fbpx

銀座を彩る魅力的な建築、</strong>その背景にあるオーナーと設計者の幸福な関係

築地本願寺

“銀座を彩る魅力的な建築” シリーズ

その背景にあるオーナーと設計者の幸福な関係

Click here for the English translation

About me

中丸 泰生

中丸 泰生

1956年神奈川県生まれ。
横浜国立大学大学院建築学卒業。一級建築士。 
全国通訳案内士(英語)

38年間にわたり組織設計事務所で国内国外の建築設計・監理に従事(米国、英国、中国他)

好きな建築:
ナショナルギャラリー東館(ワシントンDC、USA、I.M.ペイ)、キンベル美術館(フォートワース、USA、L.カーン)、金沢21世紀美術館(SANAA)

趣味:
バンド活動(バンマス、エレキベース、分野:ジャズなど)

建築専門家向けツアー、企業研修などで活躍中

私は建築設計事務所に永年勤め様々な建築の設計やコンペ、プロポーザルに携わってきました。

そして発想を錬る際にはよく次の4つの切口で設計の糸口を探りました。

4つの切口とは 【施主】 【土地】 【機能】 【時間】 です。

【施主】 : 人となり、会社の歴史、アイデンティティー 等 

【土地】 : 形状、面積、歴史、周辺環境、気象環境 等 

【機能】 : 用途、諸室、広さ、室内環境、ランドスケープ、
       法規、コスト、納期、工法 等 

【時間】 : 時代背景、社会情勢、景気 等

今回はこの中の第一番目 【施主】 の切口で施主と設計者の関係から銀座の建物をみたらどう見えるのかを探って行きたいと思います。

築地本願寺

まずは何と言っても異彩を放つ建築の築地本願寺。

設計者は建築史家にして、建築家でもある東京大学建築学科教授伊東忠太。
伊東忠太を理解しようとするとその活動範囲の広さに多彩さに戸惑ってしまいます。

伊東は日本建築の源流を探るべく1902年から33ヶ月に及ぶ中国、インド、イスラム地域調査探検を敢行し
大陸に渡り中国を手始めに西にインドを経て欧州まで延々と進みます。

一方、後に築地本願寺設計を伊東に依頼することとなる築地本願寺の大谷光瑞(こうずい)は
奇しくもロンドン留学を終え帰途に探検隊を組織し仏教の源流を探るべく
大陸を東に進んで行きました。

そして中国に到着した際に二つの探検隊が1902年運命的な出会いをします。

この行動の建築家と行動の宗教家の運命的な出会いこそがその後の築地本願寺の建設に結実します。
並外れたスケールの大きな二人の遭遇は凡人には想像できないインスピレーションを感じ意気投合したのではないでしょうか。

築地本願寺建設にあたり大谷が希望したのが
「仏教は印度から来たものだから築地の別院はぜひ印度式に建てたい*」
  「伝統宗教である仏教も、時代に合わせて近代化すべき*」との意向。

それを受けて伊東は
 「宗教建築も時代の流れを汲んで機能を重視する近代生活に合わせるべき*」と応じたのでした。


そして出来たのがこちらの築地本願寺。

 

インド古代仏教建築の外観プラス浄土真宗寺院の内観を持つ設計者独自の世界。

内部に各種動物モチーフの彫刻が設置されており、ステンドグラス、パイプオルガン、折り上げ格天井も。
また参道の無いユニークな形式です。

内部には様々な動物の彫刻。

ところで築地本願寺の実際の設計の時点では大谷は不本意ながら門主を退いてしまっていて大谷の応援が十分得られずまた檀家からの反対もありかなりおとなしい設計になったそうです。

伊東はそのことにずいぶん不本意だったらしいです。もし伊東の当初設計通り出来ていたらどんな建築が出来ていたのが想像するだけでも恐ろしいです。


伊東は奇才と思われがちですが明治神宮、平安神宮など正統派の格式高い神社の設計も行っています。

実にパワフルに手当たり次第に設計、探検や旅行で手に入れた知識を縦横無尽に設計に反映していった変幻自在の建築巨人なのです。

(*『明治の建築家伊東忠太オスマン帝国をゆく』 ジラルデッリ青木美由紀 著より)

歌舞伎座

江戸時代より続く歌舞伎の東の殿堂歌舞伎座は、施主といえば直接的には松竹であり歌舞伎座でしょうが、実際の施主は歌舞伎役者の方々や歌舞伎ファンの皆さんではないかと思います。

さてその建築としての歌舞伎座ですが、当然伝統文化の歌舞伎の殿堂であるので和風と思うのが自然で現在の歌舞伎座も立派な和風建築です。
しかし初めからそうであったのではなかったのです。

つまり現在の歌舞伎座は第5世代目なのです。

① 第1世代(1889年 明治22年)に関わった福地源一郎は幕末から明治時代にかけての武士、ジャーナリスト、作家、政治家なる人物だそうです。
第1世代建設の時は明治であり、近代化(=西洋化)が叫ばれた時代。
歌舞伎座の建物といえども西洋に対して恥ずかしくない建物と言うことでパリのオペラ座を参考とした西洋風建築でした。

② 第2世代(1911年 明治44年)の設計者は清水正太郎。第1世代老朽化に伴い骨組組みを残して今度は一転和風(帝国劇場の洋風意識)、水平線強調の建物でした。
これは同時期に建てられた帝国劇場が洋風デザインとなり歌舞伎座は和風に回帰したもので、この時に歌舞伎座建築のシンボルとも言える入口の唐破風や屋根の千鳥破風が現れイメージの原型が出来たと言えます。

③ 第3世代 (1924年 大正13年)の設計者は岡田信一郎で、作品に明治生命館、大阪市中央公会堂などがあり様式建築の大家です。

④ 第4世代(1950年 昭和25年)の設計者は 吉田五十八で、作品に日本芸術院会館を始め数々の和風建築を設計しています。

3代目と4代目歌舞伎座の設計者は奥さんが粋筋であった。そうした事も設計を手がける事となったゆえんの一つではないかと想像します。     

歌舞伎座は災害、戦禍等に翻弄され現在は前述したように第5世代の建物です。設計は今をときめく隈研吾。

さすがに隈研吾をもってしても全く新しいモダンなデザインの建物には出来なかったようで、いわゆる歌舞伎ファンや役者の方が持っている歌舞伎座のイメージを踏襲したデザインです。

 

また、代々歌舞伎座は災害に頻繁にあってその都度建て替えられています。現在の歌舞伎座も建設中に東日本大震災が発生しました。この結果この建物には様々な災害対策が施されました。具体的には帰宅難民者のための一時避難施設としてのスペースの確保、災害トイレ等々です。

地下の店舗エリアは非常時避難スペースともなるため可動式の店舗となっています。

ニコラス・G・ハイエック センター

スウォッチグループの銀座旗艦店であるこの建物の名前は一代でスウォッチグループを築き上げた創立者の名前から来ています。

そのオーナーであるハイエク氏はオメガ、ロンジン、スウォッチなど多くの世界的ブランドを持つスイスの時計メーカーであると同時にモノづくりを理解するオーナーでもありました。

レバノン人のハイエクはスイスに移り住みビジネスの世界を生きて行きます。

その後コンサル会社設立しますが瀕死のスイス時計業界から事業建直しのコンサル依頼がありその手腕を見込まれて自らが舵を握ることになります。

そしてスウォッチを設立。カジュアル時計の分野を開拓していきます。
その後数々の名門ブランドを買収し今では有名ブランドを数多く傘下に収め大成功を収め2007年にはハイエクの貢献に対し史上初のスイス生涯功労賞が贈られています。

そのスウォッチグループの東京銀座の旗艦店。
そしてその設計はコンペで選ばれる事に。
では応募者である坂氏はどういった戦略をとったのでしょうか。

それは“Problem making”と言う戦略です。

そして坂氏はこのコンペに勝ちました。
冒険をあえてした理由は勿論勝算あっての事。
施主のマインドの読みがまさに正しかったのです。

坂氏はスイスにあるスウォッチ・オメガ新本社ビルの設計も手がけており両者の信頼関係が強く継続していることが窺えます。

詳しいブログはこちら

**************************************

さて話は変わりますが私自身会社の仕事とは別にプライベートでいくつかの住宅を設計しました。

住宅の設計は奥が深く施主との関係がとても濃密です。
また、住宅設計では設計の技術的な事と同じくらい施主と設計者の相性が大切です。

私の場合一軒目に設計したのが自宅でした。
それに興味を持って頂いた方から設計を依頼された例が多かったので設計スタイルや設計者の性格もご存じでお互い気心が知れていました。

一般の建築設計の際も施主の方と意気投合できればしめたものです。

いずれにしても施主と設計者お互いの信頼関係と良い建築を作るのだという双方の熱量が素晴らし建物を生み出すものと信じています。

以上

関連ブログ

関連ツアー

関連ブログ

Share this post

Share on facebook
Facebook
Share on twitter
Twitter
Comments are closed.